それからバタバタして入院。 桜の花が見事に咲いている最中でしたが、そんな花をめでる気も無いときは 桜の美しさも感じませんでした。最初の手術は2時間位で、足の付け根から血管に管を肝臓まで入れて、そこに薬と、患部に栄養が行かないように栓をしたようです。その手術の後がかなり痛むらしく大変だったのでその日は病室に泊り込みました。痛み止めも余り効かず大変でしたが翌朝には痛みも引き、ほっとしました。私も家に帰って仮眠をしていると病院から呼び出しの電話 が鳴りました。
「奥さんに内密で話したい事があるのでご主人には絶対気がつかれないように来週の火曜日にいらして下さい。」と今日はまだ金曜日なのに言うのです。なんでなんで、これ以上のことが、本人に隠さなければいけないことがまだある訳?病名も知ってるし、余り良くない状態であることも本人にも判っているのにこれ以上本人に言って無いことがあるなんて信じられませんでした。おまけに今日は金曜日、来週の火曜日までどうして待つの?どきどきさせるのは直前にしてほしいな。これから4日間どんな思いで過ごせばいいんだろう?こんなに早めに電話してきた病院を恨めしく思いました。
私は毎日病院に通いましたが、夫はもう直ったつもりで明るく、経過も順調でした。反面私は毎日ゆううつで、 夜も眠れず、そわそわとしていました。
やっと来た火曜日、1人で病院に行くのは不安なので妹にも付いていってもらい、2人で先生に向き合いました。 その時、医師の話がどんな内容であったのか、どういう訳か思い出せないのです。その時の話より待っていた4日間の苦しみのほうが大きかったので話の内容はとりたてて内密にするほど大きなものではありませんでした。しかし、私の頭はその時すでに悪い事は頭にはいらない脳 になっていたようです。その後も何度か医師と話す機会はあったのに希望の持てる話しか覚えていないのです。
妹や子供に「あの時先生がこんなこともあります。と言ってたじゃない。」と言うのですが、えっ!本当?
という始末でした。生まれつき楽天家だとは思っていたのですがそれは、都合のいいことしか頭が理解していないと言う事だったようです。
しかし夫は無事退院、やっぱり今の医学は進んでいるものね。と喜んで勤続35年になる会社からごほうびにもらえる 海外旅行の手配に気をとられていました。
そうこうしているうちに今度は実家の父の具合が悪くなり、寝たきりに。 永く不自由な生活だったのに本当にかわいそうでした。2ヶ月余後、静かに母の元に行くように亡くなりました。
この間父のことに掛かりきりでいましたが、夫の病気の事も気がかりでした。定期的に検査に行っていましたが、検査結果はなぜかすっきりとはいきませんでした。
会社から進められていた海外旅行 も延ばしのばしになっていましたが、行くチャンスは過ぎてしまったようでした。放射線治療を進められたからです。
夫は仕事をしながら治療に行きました。段々体力は落ちていくのが傍目にも判るほどでしたが、仕事を続けることが何より自分が自分らしく生活出来るようでした。
このころになってさすが鈍感な私も事態の深刻さを実感するようになりました。この綱渡りのような生活が何時までも続かないだろうとはうすうす感じてはいましたがそれは私の想像よりかなり早く訪れました。
とうとう会社に行けなくなったのです。背中の痛みで起き上がれなくなってしまいました。
急いで病院に。すぐ入院となりましたがそこで後2ヶ月の命と宣告されました。馬鹿な私はその事を夫にありのまま話してしまったのです。 もう隠し通せるだけの気力も私にはなかったのです。
何て馬鹿なんだろうとすぐ後悔しましたが、後悔してももう仕方の無い事ことでした。夫は事の重大さを自分なりに整理していました。会社の仕事の整理を始め、兄弟を呼んで後の事を託していました。又子供たちには将来自立して生きていく事を、しかし、夫が最も力を入れて周囲にお願いしていたのは私の事でした。
その事が私にはよく理解できませんでしたが、歳をとり1人で生きていかなくてはいけない私の事をなりより気遣う夫に、当の私は感激というより戸惑っていました。
ここで私は夫にとんでもない提案をしました。何と夫に「戒名を自分でつけてよ。」と頼んだのです。
長男の立場をいつも気にしていたので、将来子孫が見ても存在を感じることの出来る立派な名前を残してほしいと頼んだのです。
この変なこじつけの提案を夫はなぜか大層喜んでくれました。翌日から電子手帳を 片手に終日考えているようでした。そんな穏やかさとは別に病状は本当に深刻で、治療出来る方法も無くなりつつありました。
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